『BE HERE NOW』を生きたラム・ダスが、死の瞬間に遺した最後の教訓

ラム・ダスが亡くなる前の晩、わたしは30分おきに起こされた。書斎とラム・ダスの寝室の間には大きい仕切りがあり、わたしは書斎のほうで狭いカウチに寝ていたのだが、その仕切りを通して寝室のほうに意識を向けていると、睡眠時無呼吸の治療装置を通じて、切れ切れの短い呼吸音が漏れ聞こえてくるのだった。
あれから4年経ったが、あの晩なぜわたしが見守り番に選ばれたのか、いまだに見当もつかない。介護人のなかでわたしの立ち位置は、特に直接ラム・ダスの身体に触れるとなると、いちばん下だった。わたしは小柄で力もないので、彼をベッドから車いすへ、車いすから安楽いすへ移動させるときの介助も、ひとりではできなかった。新米すぎて、スケジュールの調整や医師の手配にはかかわれない。めずらしく彼が話をしたくなったとき、知的な会話で受け答えできるほどの経験もなかった。初めて彼と会ったのは10カ月前だし、彼の声を聴くようになってからでも3年しか経っていなかった。マウイ島にある彼の屋敷には、30年以上も付き合いのある人もいたのに。
島に行く前、わたしは医学に関する正式な訓練を何も受けていなかった。予習のつもりで、ボランティアとして3週間ほどホスピス施設に勤務しただけだ。そのほとんどの時間は、ティッシュペーパーを取ってあげたり、誰もいない部屋の照明を調節したりしていた。何度か、死の間際にいる人に付き添ったこともある。目を閉じたその顔を見つめ、部屋の重たい空気に触れ、何かが起こりつつある、あるいは起こりそうな様子を感じているというのは、胸のつぶれるような経験だった。痛み、不安あるいは喜び、超越的な体験などを感じている気配を表情から読み取ろうともしたが、痛みを和らげるアヘンの煙霧のせいで、それは難しかった。痛みで苦しんでいる人は誰もいない。笑っている人もいなかった。
だが、死と隣り合わせでいることは、なぜかわたしの気持ちを鼓舞した。その重たさが、精神的な成長に不可欠だったのだろう。死にゆく人にわたしの存在を通じて安寧を与えるところを想像し、それによって自分がこの世を去る恐怖を克服したのだ。
浄化作用と、悟りへの道
ラム・ダスと過ごしている間、わたしは自信過剰と自信喪失を常に行き来していた。あるときは、自分がラム・ダスの遺産相続人で、故人の灰をまく役目をおおせつかるという壮大な空想にひたり、次の瞬間にはこの屋敷の誰もがわたしを憎悪するところを想像した。介護人たちはそれを修練あるいは苦難の場と呼んだ。浄化作用であり、悟りへの道だというのだ。
わたし自身の仕事は、浄化作用はともかく、ほとんどが雑用をこなすことだった。断崖の近くに建つ屋敷は、寝室が6部屋で、プールとゲストハウスがあり、2エーカー(約8,000平方メートル)の庭も広がっている。その維持管理に必要な雑用だ。重要な仕事、例えば拭き掃除や洗濯、料理については、清掃係のチームや持ち回りの料理人がいた。結局わたしの仕事は、それ以外のいろいろ、ごみの分別とか皿洗い、ネコが爪を立てた衝立の交換などだった。屋敷には介護人がほかに3人いて、わたしはそこそこの給料をもらっていた。自分の部屋もあって、食事付きで、トラックも共同で使えた。わたしは従業員だったわけだが、屋敷の中はおおむね、善し悪しは別として、家族のような雰囲気だった。
それでも、書斎で夜を過ごすよう指示されたのは、今回でまだ2度目だった。いつもは、熱心な献身的行為とみなされていた仕事だ。なにしろ、ひどい夜を過ごすことを承知しなければならない。ネコの尿の臭いがしみついたカウチに横になり、自分の目の届くところでラム・ダスが死ぬかもしれないという恐怖と戦いながら。いやではあったが、看護が必要だと決められことは何でも、世話をするよう命じられた。
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物事を決定するのはほとんど、敬意を込めてダッシ・マーと呼ばれている女性だ。フィラデルフィア出身の元カトリック教徒で、70いくつかになるが精力は旺盛だった。ラム・ダスの筆頭の世話役で、さすがに体力の要る仕事からは離れているが、ラム・ダスがいつ何を口にするかは、いまでも彼女が仕切っている。本人の希望よりも優先されることが多いくらいだ。ラム・ダスは88歳で、慢性病などのさまざまな理由から健康状態は確実に悪くなっている。彼のそばで過ごすためにわたしがマウイ島に移ったのは2019年2月で、わたしが到着したその日の夜にも危篤に陥った。このときは回復し、まわりの全員を驚かせたが、本人にとってはそうでもなかったらしい。「まだ、そのときではなかった」と、ラム・ダスが冷静な口調で言ったのを覚えている。安堵の色も失望の色もなかった。ラム・ダスはそのほかにも進行性の感染症を患っており、車いすに乗り降りしたときに肋骨も折っていたようだった。
サイケデリックからスピリチュアルティーチャーへ
ラム・ダスの一生は、いくつものドキュメンタリーや自伝で描かれている。ウェブドラマ『High Maintenance』で知られる俳優のベン・シンクレアが主演するドキュメンタリーシリーズも制作中だ。ラム・ダス、本名リチャード・アルパートは、1931年にボストンの裕福な家庭に生まれた。経歴も輝かしく、スタンフォード大学では心理学の博士号を取得。ハーバードでテニュアトラック(終身在職権)を獲得し、カリフォルニア大学バークレー校の客員教授も務めた。ハーバード在籍中は、大半の時間を同僚の心理学者ティモシー・リアリーとともにサイケデリックスの研究に費やしたが、その5年後の63年、キノコから採ったシロシビンを学部生にも使わせたという理由で解雇されている。
その後の数年は各地を放浪し、友人のペギー・ヒッチコックがハドソンバレーに所有していた邸宅で、リアリーと一緒に途方もない量の幻覚剤を服用することも多かった。67年には、当時の西洋人の多くがそうしたようにインドを訪問する。人生の重大な問題に対する答えを異文化に求めたのだ。サイケデリックな世界に対する関心は薄れていた。しょせんは、気分の高揚と消沈を繰り返すだけのものに思えたからだ。インドでラム・ダスは、カリフォルニアから来たカーミット・リグズという名のヒッピーに出会い、彼に従ってヒマラヤ山脈のふもとにあるカインチという村を訪れる。リグズの導師(グル)に会うためだ。
年老いた小柄なそのグルがニーム・カロリ・ババだった。ババに見せられたアルパートは、ここでラム・ダスとして生まれ変わる。近い言葉で言えば、「神に仕える者」という意味だ。同じ年の遅くにラム・ダスは米国に戻った。空港に降り立ったときには、白いローブを身にまとい、ぼさぼさの長いひげをたくわえており、そこからスピリチュアルティーチャーとしての道を歩み始めた。1967年から亡くなるまで、ラム・ダスが話す内容のほとんどは、彼が「マハラジジ」(「偉大な王」の意味)と呼んだニーム・カロリ・ババのもとでの体験と、その体験から得たスピリチュアルな信念だった。
ラム・ダスは、主に死と臨終について語るようになっていった。81年には、サンタフェにダイイングセンターを共同出資で設立する。その趣旨は、「入居者を支援し、意識的な死へ導くという明確な目的で設立された世界で初めての場所」と謳われた。事実上は、死にゆく人々が自分の死を契機に精神的な悟りを開くことを求め、また施設のスタッフが入居者の死を契機に同じ境地に達することを求める場であった。
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ダイイングセンターの完成以前から、ラム・ダスは死の精神性、自然界の秩序における死の位置付け、そして明らかに異質な東洋的な死の捉え方について説いていた。彼の教えは形而上的な現実の具体的なビジョンに根ざしており、それは彼のグルとヒンドゥー教の聖典『バガヴァッド・ギーター』の教えを反映したものだった。彼が信じていたのは、大きく言えば非二元論(ノンデュアリズム)、すなわち不変の絶対的な存在がこの世にはあるということだった。絶対的な存在とは、ヒンドゥー教でいうブラフマンであり、ラム・ダスは「神」とか「神なるもの」、あるいは「ワンネス」(すべてがひとつであること)と呼ぶのを好んだ。
ありとあらゆる物質的な現実はそこから生まれ出る。その現実には魂(ヒンドゥー教でいうアートマン)も含まれるが、魂はその性質上、神からの孤絶という幻覚に捕らわれている。そして、ワンネスの一部であるという本質を思い出すまで、つまり悟りを開くまで、輪廻、苦しみ、死と再生を繰り返すのだ。
死は、こうした非二元性を思い出す絶好の機会になりうる。「孤絶というベール」が最も薄くなる瞬間だからである。71年に刊行され、全世界で200万部以上が売れた著書『ビー・ヒア・ナウ 心の扉を開く本』)(1987年、平河出版社、 吉福伸逸訳)で、ラム・ダスは自身の考えをこうまとめている。「あなたは永遠だ(中略)。死の恐怖はない/死は存在しない/それは変容にすぎない/幻想にすぎない」
ラム・ダスはたびたび、死を恐怖する人々を前にして、自分には「死の恐怖はない」と説いた。死の間際にある人の傍らに座り、「肉体を離れること」のパワーについていつも語った。死にゆく人が再生の輪のどこにいるのかを把握でき、そこから逃れるための行動をとれるように、「自身を静める」よう努めているとも語った。早すぎる死や、甚大な苦痛を伴う死に触れるときは、話が絵画的になることもあったが、どんなときにも軽妙さとユーモアが添えられていた。
死に関するラム・ダスの印象的な言葉のほとんどは、彼自身の口から出たものではなく、パット・ロドガストという女性の発言だった。1969年から、死去する2012年までの間、エマヌエルという名の精霊と交信していたと公言するこの女性が、ラム・ダスの秘書を務めていた。子育てもしながら、光を見始めると超越瞑想を実行するようになり、それはやがて彼女が精神感応的な聴覚による導きと呼ぶものへと進化していった。その一部は3冊の本にまとめられ80年代から90年にかけて出版され、そのうちの2冊にラム・ダスが序文を寄せている。彼によると、死について人々に何を語るべきかと尋ねたところ、エマヌエルは死が「絶対的に安全」であり、「きつい靴を脱ぐようなもの」だと答えたという。
ラムダスとの1on1
わたしがラム・ダスの声に出合ったのは、2016年のことだ。わたしは27歳で、ニューヨークのチャイナタウン、1番街を貨物トラックが通るたびにガタガタと音を立てるような建物に住んでいた。毎朝、5階分のべたべたする階段を駆け下りては、ヘッドホンから聞こえてくる彼の声に耳を傾け、科学的な知識と精神的な神秘主義とが混ざった独特の話を聴きながら仕事に向かう日々だった。
ラム・ダスは、愛着理論とか小児期のトラウマなどの心理学的な概念から、エマヌエルからのメッセージとかアストラルプレーンといった謎めいた話題まで、話が切れ目もなく移り変わっていくのが常だった。その間に少しだけ間を置き、聴き手が間違いなく本当に「これを聴いて」いるかどうかを確かめる。米国の終末期医療を改革した先人、例えばエリザベス・キューブラー・ロスのような思索家の探究をさらに深化させたように思えたが、その一方ではアラン・ワッツのような言葉づかいで話すこともあった。わたしはむさぼるようにその声を吸収し、自分の精神生活が一日ごとに急激に深まっていくように感じた。ラム・ダスの話で、わたしは向社会的になるとともに反資本主義的になり、好奇心も強くなって、何よりも自己愛を強くもつようになった。
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わたしが精神性に向き合うのは、このときが二度目だった。子どものころは、プロテスタント主義の厳格な重圧が日常的にのしかかっていた。わたしが育ったミズーリ州カンザス・シティでは、特殊創造説、テントリバイバル(テントで開かれる伝道集会)、中絶反対の主張などが当たり前だった。いまでも覚えているのは、6歳のとき、プラカードを持って賑やかな通りに立たされたときのことだ。プラカードには、こう書かれていた。「わたしはあなたを母の胎内に宿す前からあなたを知っていた──神」
ラム・ダスの教えは、それとはまったく違っていた。ヒッピームーブメントの直系であり、もっとリベラルに、自発的に意味を探究することを許しているように思えた。単調で不快なマンハッタンの生活にすり切れていたわたしにとって、ラム・ダスの声は一服の清涼剤となり、「わたしたちが孤絶しているという幻想から覚醒させてくれる」ものだった。わたしは何度も彼の著作に頼った。街を歩いていて、群衆がわたしをまるで街路灯のようによけて歩き去ったときに感じた孤独を癒やすときにもそうしたし、かつての恋人に、とっくに心が離れていたにもかかわらず、いつまでも「一緒だよ」と白々しく告げたときもそうだった。
教えのなかで、ラム・ダスは恐怖と愛を人間の経験の対極に位置付けていた。
ROBERT ALTMAN/GETTY IMAGES
それから2年後、その気になればお金をかけなくても実際にラム・ダスに会えることを知った。「Heart-to-Hearts」という、1時間の一対一のSkypeミーティングが公開サービスの一環として実施されており、それに申し込めばいいのだ。わたしの番が来て、その人が画面に現れた途端、わたしは緊張のあまり何も言えなくなった。想像していたのは、何十年も前のビデオのなかにだけ存在している、かくしゃくとした霊妙な人物だった。しかし、目の前にいるラム・ダスは、かなりの老齢で、失語症もだいぶ進行していた。97年に発症した脳卒中の後遺症だ。話し方は緩慢で、1時間のうちに口にしたのはだいたい60ワードくらいだったと思う。だからといって、退屈というわけではなく、彼はむしろ神秘的な雰囲気をつくり出していた。
Skypeミーティングに、決まった形式はなかった。ラム・ダスはただ、人を魅了してやまない笑みを浮かべながら聴いているだけだった。しばらくして、わたしが自分のことを話しすぎたかと心配になったころ、彼はこう言った。「自分のことを実に真摯に捉えている」。わたしにとって、少なくともあの当時、彼のこの言葉は深く響いたが、その後もずっとわたしのなかに残ったのは、言葉そのものより感情だった。ラム・ダスは、わたしのような見も知らぬ人間に対して純粋な愛を見い出すような境地に達していたのだろう。ブランド戦略的な行為とも、利己心の表れとも感じられなかった。そばにいてほしいと思うような意味でわたしを愛してくれたとは思わないし、親しくなりたいと考えたわけでもないだろう。ひとえに、わたしをひとりの人間として扱い、親切に接する価値があると思ってくれたのだと思う。
マウイ島のラム・ダスに会いに
そのころ、わたしはニューヨークをうろうろしていて、とにかく何かにつながろうと必死だった。ラム・ダスがもっているものがほしかった。そこで、わたしはニューヨークを離れ、何よりもまず、どうすればそれを手にできるのかを教えてもらおうとした。
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わたしにラム・ダスを紹介してくれた友人はもう、ニューメキシコ州タオスにあるニーム・カロリ・ババの寺院に移っていた。その友人を訪ね、そこで2週間にわたって料理と食事をともにした。雪の高地砂漠を放浪し、マハラジジの信奉者とも楽しい会話を重ねた。そこにいた、ある白人のティーンエイジャーは、自分がクリシュナの生まれ変わりだと言い張っていた。クリシュナとは、ヒンドゥー教で特に敬愛されている化身(アヴァターラ)のひとりだ。言い伝えられている若き日のクリシュナよろしく、彼は捕まるまで、繰り返し寺院の食料庫に忍び込んでは本物のバターを食べていた。
滞在中には、子どものころの教会を思い出すこともあった。あのころ子どもたちは、異言(グロッソラリア)を発する状態にどれだけ早く移行できるかを比べたり、全員が祈りを唱えているときにイエス・キリストとの個人的な関係の深さを誇ったりしていた。だが、ニーム・カロリ・ババに帰依する人に会ったのは、このときが初めてだった。寺院から離れるほど、信者はもう少し穏やかになるのではないかと思った。滞在の終わり近くになったころ、わたしはラム・ダスの古くからの友人という人に出会った。わたしが奉仕活動、つまりサンスクリット語で「奉仕」の意味をもつ「seva」を希望していることを理解し、マウイ島のラム・ダスに会いたいというわたしの意図を知った彼は、ダッシ・マーに口添えしてくれると言った。
その口添えのおかげで、不可能に思えたことが可能になった。あらゆる年齢の人が、ラム・ダスに近づこうとして島にやってくる。キールタンという、ラム・ダスの屋敷のリビングで行なわれる詠唱の集いや、ビーチの散策の予定を調整するために、グループメッセージに参加している人もいた。屋敷で何か役に立つ機会をうかがう人もいたし、住み込みの介護人と親しくなって、毎週のように屋敷を訪問できるようになった人もいる。しかし、ラム・ダス自身の世話をするために、ほとんど何者でもないような人間が有給で雇われるというのは、かなり異例だった。
遊び心と深い叡智が混ざり合う
屋敷に到着すると、そこも寺院で感じたのと同じような半宗教的な情熱に貫かれていることがわかった。わたしはすぐに別の介護人に迎えられ、近くの牧場に建てられた粗末な小屋に連れていかれた。数珠を手に、静かに瞑想するためだという。小屋の中はありえないくらい蒸していて、いやというほど蚊にたかられた。屋敷に戻ると、リビングは詠唱する人でいっぱいだった。詠唱のほとんどは、ハヌマーン・チャリサという賛歌で、「広大な力に輝くあなたは宇宙の至るところで崇められている」といった歌詞が付けられている。集団的な熱狂が部屋を満たしていて、わたしもそこに加わり、何百と並ぶ小さな神々の彫像を見つめながら、自分が教会にいるという感覚を押し戻そうとしていた。
1時間以上も詠唱が続いた後、わたしたちはくつろいで、チャイとスナックを口にしながら、あいさつを交わした。マハラジジが起こした奇跡の話を語り合う人もいれば、わたしの存在も彼の計画の一部に違いないと言う人もいた。手を胸に当て、笑顔でラム・ダスの足元に座っている人もいた。わたしがマウイ島にいた年、ラム・ダスは地元のリゾート地で瞑想の会を開催し、スピリチュアルな話や詠唱を求めて何百という人が集まった。当然、そうした会に集まった人々のなかには、わたしがクリストファーという名前を名乗ると、戸惑い、あるいは哀れみの目を向けてくる人もいた。「まだ名前をもらっていないんですか?」と。ラム・ダスはよく、人々にヒンドゥー名を付けるのだ。ラクシュマナ、ゴヴィンダ、ハリ、デーヴィーといった具合に。わたしは、クリストファーのままでもかまわなかった。
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その一方で、つかの間、くだけた雰囲気になるときもあって、わたしはラム・ダスの遊び心と叡智の深さが混ざり合ったところを目撃した。それこそ、わたしを初めてラム・ダスに惹きつけたものだった。ある秋の朝、わたしとほかのふたりの介護人が、ラム・ダスの身の回りの世話をしていた。歯を磨いたり、髪を整えたり、服を着る、補聴器を着けるといったことの手伝いだ。わたしは、ドージャ・キャットの「ゴー・トゥ・タウン」をかけた。あとで知ったのだが、これはクンニリングスについての歌だった。わたしがボリュームを上げると、4人は羽目を外して踊り始めた。介護人のひとりはベッドに飛び乗り、もうひとりは寝室と書斎の間の仕切りにぶら下がった。ラム・ダスはといえば、目を生き生きと輝かせ、いたずらっぽい笑みを浮かべながら、動くほうの片腕を振っていた。
ある日、わたしはラム・ダスとふたりだけになり、彼がシャツを選ぶのを手伝っていた。ほとんど屋敷の中で過ごしていたが、ふたりきりになった回数は両手で数えて足りるほどしかない。その大半は飲食、あるいは糖尿病性神経障害の痛みを表面的に和らげるための足のマッサージなどだった。この日は、ラム・ダスが健康上の理由からシロシビンを禁じられていたため、屋敷からようやく険悪な雰囲気が消えつつあるところだった。確かに気の毒だった。なにしろ、ドラッグこそ、50年以上も前のスピリチュアルな旅の始まりだったのだから。わたしは彼に、この家を監獄のように感じたことはないか、と訊いてみた。ウォークインクローゼットの中で、彼を見下ろすように立ったまま、たっぷり1分ほど沈黙が続いた。それから、こめかみを指先でたたきながら、彼はこう言った。「ここだよ、監獄は」
「マハラジジが見ている!」
2019年12月22日の朝を迎えたとき、ラム・ダスはまだ生命を保っており、わたしは一瞬気を抜いていた。そこへ、見るからに寝不足の様子のダッシ・マーがやってきて、ラム・ダスのバイタルを調べた。悪い状態だという。わたしたちはすぐ行動に移り、医師が到着するまで彼を楽にしようとした。
感染症が原因で肺に水がたまっており、ひと息ずつ呼吸するのも負担になっていた。水分を伴って喉を鳴らすような浅い呼吸の合間に、咳き込んでは血液まじりの粘液が出る。朦朧としているようだったが、ベッド際で漢方医がジョークを口にすると、まだ弱々しく笑うこともあった。
そのうち、ダッシ・マーと医師は書斎で話を始めた。ほかの介護人は酸素タンクなど必要な器具のそばについている。わたしはラム・ダスのベッドの脇にいて、反対側には長年の共著者であり、カインチ以来の友人でもあったラームシュワール・ダスがいた。やがて、ラム・ダスは呼吸困難に陥った。
朝からずっと苦しそうな呼吸が続いていたが、いまは呼吸そのものができなくなっていた。それに気づいたラム・ダスがわたしのほうを見る。あのときの彼の顔は、いまでも忘れることができない。明るい色の目を大きく見開き、口を開いて、唇を少し突き出した顔。わたしはたちまちパニックになってダッシ・マーを呼び、咳払いしやすいように、ベッドを起こそうとした。それでもベッドが起ききらなかったので、夢中になって彼の上半身を引き起こし、頭が腹より高くなるようにする。これなら、嘔吐しても窒息しないはずだ。
呼吸できなくなってから30秒ほどが経過した。ラム・ダスの足元あたりから医師が「落ち着きなさい!」と叱声を飛ばしてきた。それでようやく我に返り、ラム・ダスが死ぬかもしれないと気づいた。いま、ここでだ。ダッシ・マーにとっても同じだったらしく、彼女は書斎に走っていって、大きい額に入ったニーム・カロリ・ババの写真を抱えて戻ってきたかと思うと、意識を集中するよう彼に呼びかけた。「ラム・ダス! マハラジジよ、マハラジジが見ている!」と叫びながら、写真をベッドの脇に置く。愛している、と彼女は言い、もう楽になっていいのだと告げる。わたしも、愛していたと口にする。そして、ラム・ダスは呼吸しようとするのをやめた。
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部屋を出たのは、わたしだけだった。書斎に転がり込むと、スマートフォンを手に取り、震える手でほかの介護人宛てにメッセージを送る。「RDが危篤です。もう何分もないかもしれません」
外では、風が吹き荒れていた。ここマウイ島のノースショアでは、風速が15~20mになることもめずらしくはない。窓がガタガタと音を立て、ヤシの木の葉が芝生の上を飛んでいく。その日は早朝から風が強く、空には灰色の厚い雲が垂れ込めていた。書斎に座ったまま、わたしは風に木が折れるのを見つめ、その荒々しさを、分け隔てのない猛威を感じていた。
死に際の品性
ラム・ダスは、わたしたちと万物との結び付きを恐怖が妨げると考え、「変化が恐怖を生み、恐怖が保身を生む。保身は先入観を、偏見を、ついには暴力を生む」と述べていた。教えのなかで、彼は恐怖と愛を人間の経験の対極に位置付けることが多かった。恐怖はエゴの副産物であり、愛は魂が純粋なままにある副産物だからであり、そのことが死の瞬間に特に理解できるのだという。「いまを十全に生きていれば、期待から来る恐怖も不安もなくなる。いまここにあるだけで、未来には存在しないからだ」。ラム・ダスはそう書いている。
そして、この二項対立こそまさに、彼の死に直面したときに感じた困惑の原因だ。最後の瞬間にラム・ダス自身が何を感じていたか、何を見聞きしていたかは知るよしもない。彼の目に映っていたのが恐怖だったかどうかも定かではないが、確かにそう見えた。ひょっとすると驚愕、あるいはもっとまったく違う感覚、何か壮大なものに飛び込む直前に突然訪れた空虚さだったのかもしれない。
いずれにしても、その何かが彼の教えには大きく欠けていたようだった。ラム・ダスが、痛みや、死の冷酷な無慈悲さを認めていた時期もある。著書『人生をやり直せるならわたしはもっと失敗をしてもっと馬鹿げたことをしよう』(2001年刊、ヴォイス、ヒューイ陽子訳)で、次のように書いている。
死ぬことは容易ではない(中略)循環の停止と心筋の死であり(中略)組織に酸素が行きわたらなくなり、組織が機能不全に陥る(中略)。そんな恐ろしい状態で、明晰な意識と品性を保って死ぬには、いったい自分自身の意識のどこに立ちたいと願いようがあるのか?
だが、何十年にもわたって死に際の品性の重要性を説いてきたにもかかわらず、そこでは恐怖がほとんど考慮されていない。恐怖はわたしたちの存在と共存しうるし、愛とさえ共存することがあるのだ。ラム・ダスが息を引き取った直後、かくあるべきだとわたしが考えた彼の死と、その実際の死に方との間の溝をわたしは感じた。それは、かつて16歳のときに感じた裏切りの失意にも似ている。わたしは母親と牧師の忠告を無視し、神に庇護を求めるのをやめたのだが、結局は似たような苦難も続けば、すばらしいことも起こるのだと気づかされただけだったのだ。
マウイ島の屋敷でも、ラム・ダスの遺体が運び出されるまで3日間にわたって死の儀式が執り行なわれたとき、わたしの精神性は拠り所を失ったように感じた。2日目の夜遅くになると、彼の遺体は書斎で氷の上に寝かされた。生前、特に希望していた儀式で、それは周囲の人間がそれぞれの恐怖を超越できるようにという願いからだった。わたしは、床に座り、ろうそくの灯りに照らされた彼の死に顔を見上げた。その肌は青白くやせ衰え、口がわずかに開いていた。わたしは神の恩寵を待ち、彼がどこか別の現実界から頼もしい声で話しかけてくるのを待った。だが、そんなことは起こらず、気づけば一緒にいられる最後の瞬間が訪れていた。過ぎゆく一瞬一瞬に、恐怖がついて回った。過去に対する恐怖でも、不確かな未来に対する恐怖でもない。いまここにある強大な現実から来る、見慣れない、広漠とした恐怖だった。
クリストファー・フィオレッリ|CHRISTOPHER FIORELLO
カリフォルニア在住のライターで、現在はブルックリンからサンタ・バーバラまで歩いた経験を執筆している。
(Originally published on The New Yorker, translated by Akira Takahashi/LIBER, edited by Michiaki Matsushima)
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